十二月大歌舞伎「瞼の母」「楊貴妃」
年末、この2作品を観れてよかったです。
「瞼の母」
長谷川伸の作品が元となっていて、歌舞伎らしくない面もありました。
特筆すべきは市川中車氏の演技力。私の母から何度となく彼の生い立ちや梨園との関係性についてなぜか聞かされていたのですが、その過去と今回の役が被ってしまうのは気のせいではないはず。顔が似ているって話もそういえば聞いたことがあります。
対面したのは母ではなく父だったけれども・・・
けれども、その経験をここまでの卓越した芝居に昇華させたのは中車だからこそ。涙を浮かべ、震える声で母にすがり嘆く姿に涙せずにはいられませんでした。
どれだけの決意で梨園に入ったかは想像でしか語れません。だから何も言うべきでも語るべきでもないけれど、ただこの人の瞼の母が観れてよかった。
母の気持ちもわからなくはなくて、もう死んだと思った子が突如現れて、でも自分にとって今生きている子供は娘だけで・・・いきなり死人が蘇ったって困惑するし、信じられないのは仕方がないようにも思います。
そんな彼女の母性を目覚めさせたのが、娘だというのがまた切ない。娘にとっては顔もよく知らない人で、抱くのは母性ではなくて、生きていて母ほどの苦労もなく純粋だから受け止められたのかもしれません。
ラスト、主人公のあの芝居がすべてを物語っていて、最後の最後に涙を搾り取っていきました。
母親を演じた玉三郎もやはり素晴らしく、魂ごとぶつかるような中車の芝居に真正面から向き合い、同じ熱量で芝居をしていらっしゃいました。
キセルを手から落としたりといった些細な動きや表情の変化が見事でした。
親子という関係は、はたからみれば美しいかもしれないけれど、時に苦しみにもなり、悲しみにもなってしまう。それでも大切にしようと思ってしまうのは、呪いなのか因縁なのか、絆なのか・・・
一度は見なきゃダメよと言われていただけあって本当に美しい。
楊貴妃はただ顔が綺麗なだけじゃなく、舞はもちろん振る舞いの一つ一つ、隅まで美しかったんだろうなという説得力があります。
手先も美しく、玉三郎氏の美しさが楊貴妃に対して人々が無意識に抱くイメージとマッチしたのかな、などと書いてみますが、果たして・・・
キンキラキンの頭飾りはひたすら重そうなのに、本当に優美。
これはもっと前の席で見たらすごかったんだろうなあ。
歌舞伎って、やっぱり花道の近くとかとちり席がいいんでしょうか。
いつかは桟敷席と思いつつ結局あきらめて(だってぼっちだし)適当に選んでいますが
席にも拘ってみたいかもしれない。
まだ不勉強なので実行はしませんが・・・・